細長あいブログ

アラフィフから社労士を目指す

サボり明けの仕事

今日はちゃんと働いた。でも頭がボーっとしてる。体調不良って事になってるから、まだ体調不良のフリして、今日1日静かに過ごした。会社では隣の席の仲が良い同僚にだけ、事情を話してあるが、他の人は知らない。聞かれたくないから、言わない。日薬(ひぐすり)と言う言葉があるらしい。時間の経過が薬のように治してくれると言う意味。あとどれくらいで日薬が効いてくるのか、わからないけど、今日はその第1歩。とりあえず会社に行けて、いつも通りの時間働けてよかった。少しだけど、出来た事を褒めてあげたい。

 

今から、社労士の資格を取るための予備校の説明会に行く。前向きにいろんな事に取り組むんだ。とりあえず、話を聞いてこようと思う。

会社をサボる

衝撃の同期の死から一夜明け、予想通り私の顔は浮腫でパンパンとなり、何事もなかったように会社へ行く事が不可能な状況になった。誰かに何かを聞かれても、平常心で答える自信がなく、完全に会社をサボることにした。もちろん、連絡をして。体調不良が妥当なところだと思い、朝係長が出勤するや否や電話して、今日会社お休みしたい旨伝えた。熱がない事だけは確認されたけど、あっさりお休みできた。今の会社で働き始めて、初めての有給休暇を取ってみた。久しぶりの平日休みに、ずっと家にいるのも気が滅入るので、出かけることにした。コロナの緊急事態宣言中なので、越境は許されず、近場しか行けないし、悩んだ結果、スーパー銭湯に行く事にした。コロナ禍でスーパー銭湯に行くのは初めてでしたが、ひとりだし、誰とも話さないし、平日なら大丈夫だろうと行ってみた。

 

平日のスーパー銭湯は結論から言うと最高でした。特に私が行ったところは岩盤浴やマン喫みたいな所もあり、お風呂入って、ご飯食べて、ゴロゴロ本読んで、たまに岩盤浴して、‥って、最高だ。今まで土日にしか行った事がなく、すごく混んでるしサザっとお風呂入ってご飯食べて帰るみたいな使い方しかした事なかったから‥。本当、最高でした。コロナ禍で何も楽しい事が無いと思ってたけど、これからはたまに平日休みを取って、スーパー銭湯にこようと思う。新しい趣味が見つかったみたいで、嬉しいな。今まだ、スーパー銭湯にいるので、もう少しゴロゴロして、岩盤浴して、寝て、帰ろと思う。

 

同期の死

昨日の夜、以前の会社で同期だった同い年の友人が交通事故で亡くなった。46歳だった。朝からの訃報に動揺しまくりで、一旦心を落ち着かせる為に日記を書く。特に誰かに読んでほしい訳ではない。自分の記録の為だ。

 

同期はとても出来る人だった。私が辞める時に唯一残った同期だった。20代から30代にかけて他にたくさんいた同期は結婚や出産を機に辞めていったが、どうゆう訳か私と彼女はその機会がなく(厳密にいえば彼女は結婚を一度しているので私とは違うけど)、最後に残った2人だった。でも結局は私が先に44歳で辞めてしまった。私が辞める時、私達は別々の支店で働いていたので、最後の出勤日に挨拶の電話をしたのを覚えてる。その時、あの子泣いてくれたな。私が辞める時、泣いてくれた。その後、一回飲みに行った時に会ったのが最後になってしまった。とても出来る人で、仕事が早くて、部下からの信頼も厚くて慕っている後輩たちはたくさんいた。姉御肌ってやつかな。頭の回転が速いから、私とは全く考え方も違うし、私はいつも羨ましく思ってたっけな。でもそそっかしくて、大雑把で、・・。時々びっくりするミスを犯すけど、あのスピードで仕事してたら、そりゃ何かやらかすよねって思ってた(笑)実家が近いから、最寄駅も一緒だし、たまーにバッタリ駅で会うなんて事もあったな。未だに信じられないし、今日お通夜に行くのも怖い。現実味を帯びてしまうから。

 

彼女とは特別親しい仲ではなかったけど、訃報を聞いた時、びっくりするぐらい嗚咽してしまった。だって、20年ぐらいは同期として切磋琢磨してきた間柄だもん。唯一残った、彼女がきっと会社の柱に今後なるんじゃないかって、思ってたのに。こんなに突然いなくなってしまうなんて。怖い。複雑。彼女のご両親は、恐らく私の親と同じぐらいだろうから、ご両親が気の毒で、ほんと辛い。今、まだお通夜に行く前で、すでに目がパンパンに腫れ、頭もガンガンする。明日会社に行って働けるか自信ない。

 

亡くなった彼女は本当なら今日は出勤日だったようだ。彼女の代わりに同じ支店で働く後輩が今日は出勤しているらしい。とても働けるような状態ではないだろうと容易に察しがつく。奇しくも、明後日からコロナのせいで再び臨時休業に入るそうだ。もう今日から臨時休業でもいいんじゃないかとすら思う。いろんな事が皮肉に思える。神様はきっといるんだろうけど、何もしてくれない。そうただ見てるだけ。誰かに何かをしてもらえると思ってはいけない。自分で這い上がって生きていくしかないのね。

兄との関係

久しぶりのブログです。

 

私は3歳年の年上の兄がいます。小さな頃から仲が良かった訳ではありませんでしたが、悪くもありませんでした。10年程前に父親が亡くなってから、家族は兄と母の3人暮らしとなり、兄との関わりが嫌でも多くなりました。私は父の生前、父親とも仲が良くなく、どちらかと言うと父が嫌いでした。父をわりと無視していました。その心境はとても複雑で、うまく書けません。父が亡くなって、兄と父が重なって見えるのか、次第に兄の事も受け入れられなくなりました。ここ1年ぐらい特にその感情が酷くなり、兄と同じ空間にいることも嫌になり、一緒に食事をする事を避け、同じ時間帯に居間などでも会わないように家の中でも避けたり、洗濯物や兄が使っている物すら何だか汚い物のように感じる程、私の気持ちは頑なでした。たぶん兄は何も悪くないんです。直接的に何か私にした訳でもなく、私に何か不利益になるような事をした事もない。だからきっと兄はなんで自分が無視されてるのか分からないでしょうし、何か悪い事したと思ってるのかもしれません。そんな自分がすごく嫌だし、なんで普通に接することができないのかと落ち込んだりもしました。

 

自分なりに振り返ってみて、何が嫌だったのか考えました。心当たりがあるとしたら、私と兄は2人とも結婚していません。私は彼氏無し歴10年で、兄に至っては彼女を人生で見た事ありません。そんな私は結婚できない自分にものすごくコンプレックスがあります。数年前にたまたま兄の職場の方にお会いする場面がありました。兄の同僚の方の奥様でした。その方は私を見るなり「いつも主人がお世話になっています」と私に対して挨拶してきたのでした。恐らく私を兄の奥さんと勘違いしたのでしょう。兄も当然結婚してるだろう年齢なので。気まずくなった私はとっさに隣にいた母の後ろに隠れました。いい大人の癖に。「違います違います」って大きく手を振って。自分でもなんだその態度って・・思います。でも反射的に生理的に「ものすごく気持ち悪い」っていう感情が湧いてきてしまって、逃げてしまいました。その時、ああそうかと。兄と外を出歩くと、当然夫婦のように見られてしまうんだなと知ったのでした。そしてものすごい嫌悪感に襲われることになったのです。たぶんそれがきっかけかなと思います。そんな事で嫌いになるなんて、ほんと自分が嫌になります。でもそんな事、兄にも母にも言えないから、何となく家でも避けてなるべく話かけないでオーラを出し、一緒にいる場面を作りだそうとしない行動をしているのだと思います。

 

母が高齢で車の運転もできないので一緒に暮らしていますが、いずれ実家を出ないとと思っています。離れて暮らした方が兄に対して優しくできる気がするのです。父にせよ、兄にせよ、最も身近な異性を受け入れる事ができない私が結婚なんて出来る訳がないなと自分なりに結婚できない要因を感じています。

 

今日は兄とおそらく3ヶ月ぶりぐらいに会話したので、その記念に感情を整理してみました。また気持ちの整理がてら、ブログ書きます。

2021年が明けました

あっと言う間に年末が過ぎ、2021年も3日経ちました。明日からはもう仕事です。この年末は毎年来ていた妹家族も来ず、近くに住む知人も来ず、寂しいお正月かと思いきや、なんと自由でのんびりした正月だったことか。自分の好きな事をとことんやり、好きなように時間を使う、ある意味贅沢な正月だったのかもしれない。昨年からずっとデスク周りが使いにくく、物が溢れた自室をかなり整理できて、今の自分にあった環境にカスタマイズできたと思う。気持ちもスッキリして新しい年が迎えられ、とてもうれしい。今日あと1日あるので、さらに細かく整理していこうと思う。

昨日は昨年に引き続き、初売りへ行ってきた。昨年は友人と出かけたが、今年は自粛傾向にあるので、一人でササっと済ましてきた。事前に行くお店も順番も決めて、効率よく行けたと思う。ただ予定外の福袋を買ってしまい、福袋の重さに耐えられず、予定の3分の1のお店は諦めて帰宅した。福袋は昨年から本格的に買い始めて、昨年11月ぐらいからのいろんな抽選やネットでの発売にも参加したりして福袋情報をたくさん集めた。福袋って、買って失敗して痛い目をみないとやめられない。去年も買って、失敗したお店は今年は買わなかったし、買おうともやっぱり思わなかった。けど買ったことがないお店や、ネットなどの口コミがいいお店はやはり欲しくなるし、今年買えなかった福袋は来年買おうと思った。そのために貯金もしよう。必ずしも欲しいものが入っている訳ではないが、あの開ける時のワクワク感がたまらない。こんな私でも楽しい気分になるのだ。正直今年買った福袋の中も、どうしようコレっていうのがあった。でもいいのだ。これから売るなり、あげるなり、なんとかしようと思う。

 

さぁ、箱根駅伝を見ながら、片付けの仕上げをしよう。

2020年の終わりに

12月も2週目に入り、年末が近づいてきました。最近またコロナが増えてきたので、年末に帰省してくる家族とも相談し、今度の年末は初めて家族が揃わない正月を迎えることになりました。こんな正月が来るなんて、今年のお正月の時には想像もしていなかったな。なんだかコロナに振り回され、翻弄される2020年でした。私はコロナ禍で仕事を得る事ができ、もしこれがコロナ禍でなかったら今の職場にいれたのか正直わかりません。よかったのか悪かったのか複雑です。とりあえずは、今は職に着けて、安定した生活が出来ていることに感謝しなくてはと思います。

 

仕事にはかなり慣れて、やれることも増えてきました。代わりに職場の嫌な面も段々と見えてきます。同じ職場に同じ時期に入った同期の女性が、私よりもずっと精神的に不安定な方で、周りの人達の言動にかなり動揺してる感じがします。そんな彼女と接すると自分にも動揺が移ってしまって、いらぬ心配をしてしまいます。精神的に弱そうな人を見ると、自分も決して強くはないのに、私がなんとかしてあげないと言う謎の使命感に襲われます。困ったものです。

 

今年の年末は静かな年末、そして静かなお正月。私としては心が休まり、ホッとしてるところもあります。誰も来ないから、掃除とかサボりがちです。最近の休日は、はやりのアニメ見たり、漫画読んだり、ダラダラしています。でも心はすごく休まります。でも、そろそろちゃんと生活整えようと思います。年末だし、年始には来年の目標を立てたいと思います。目標とか計画とか立てることは大好き。立てて満足するタイプですが、でも立てようと思います。また書きます。

HSPをようやく自覚し受け入れていく

以前の職場で働いている時から、すごく生きづらさを感じることがありました。でもそれが何かはずっと分からず、同じようなループをグルグルしてきたと思います。それが自分の性格だと思っていましたし、この性格を変えたいとずっと振舞ってきたと思います。自分に無理して、他人に出来ることは自分も出来ると信じて、いろいろ背負いこみすぎていました。たくさん傷ついたし、落ち込みました。周りと比較して自分を責めたりしましたね。なんで私は出来ないんだって・・。出来ない自分が悪いんだ、認められなくても仕方ないんだと思って、自分の内側に負のエネルギーを溜め込んでいたと思います。

 

そんな私がある事をきっかけに、20年勤めた会社を大儀名分なく辞めることができました。私にとっての大儀名分とは、例えば「結婚して主人の転勤についていきます」とか「出産して育児に専念します」とか。みんなが「あぁそうなんだ。よかったね。」と言ってもらえるような理由。でも私はそういう状況になるのをずっと待ち続け、20年。会社から結婚祝いも出産祝いも貰わぬまま、退職しました。勤続10年を過ぎたあたりから、徐々に同期は減っていきました。ちょうど結婚出産ラッシュの年頃です。私には何も起きませんでした。そして勤続15年を過ぎてあたりから、会社の私に対する扱いがちょっと変わってきたと感じました。私は旦那さんもいないから早く帰る必要がない、子供がいないから無理なお願いができる・・と。私も薄々分かっていたので、残業は進んで受けましたし、子供の発熱などで急にお休みする人の代わりに働いたり。表面的には「いいよ~。大丈夫だよ~」と言っていましたが、内面には黒いものがこびりついていたんですね。すごくがんばる人を演じていたんだと思います。でもある事をきっかけに呪縛が解けたように「そうだ!私辞めよう」と決心したのでした。だから、大儀名分なんてなくていいんです。「辞めよう」と自分が決めたら、辞めていいんです。

 

辞めようと決断した翌日、私は休日で家にいました。それが朝だったのか、昼だったのかもう覚えてないですが、母に仕事辞めたいと打ち明けました。私は母と兄の3人暮らしです。父は7年前に他界しています。年金暮らしの母を私と兄が支えている家計です。だから正直、母には反対されると思っていました。すでに44才になっていましたから。何から話し始めたのかも全く覚えていませんが、途中から泣きながら話していたのは覚えています。そしたら母は「いいよ」と言いました。すんなりとあっさりと。どうやって説得しようかたぶん考えていたと思いますが、何も反対されませんでした。それまでずっと仕事から帰ると、私はずっと死んだような顔をしていたと母は言いました。帰るとまずダイニングの椅子に座り、そこから立ち上がることもできず、何の表情もなくスマホをいじる私を見て、心配していたようでした。仕事時間が不規則で、22時を回って帰宅することもしばしばあり、当時70才になったぐらいの母には起きて待っていることも辛かったと思います。でも出来るだけ起きて待っていてくれるか、調子が悪く寝てしまう時も夕食の用意はしてくれていました。私が辛そうに仕事をしていることも心配していたようです。今思うとすごく体に悪いことをしていましたが、22時過ぎでも夕食を食べていました。なぜならお昼休憩を取ってから何も食べずに仕事するのが普通だったので、お腹が空きすぎで眠れないのです。また仕事の事を考えすぎてアドレナリンが分泌されて頭が興奮状態になると眠れず、食べて血糖値を上げて眠気を起こすようにしないと眠れません。お風呂に入ると寝落ちしそうで、それも母は心配だったようです。今思うと、信じられない生活をしていました。当時はHSPについて全く知りませんし、HSPである自覚が全くないにも関わらず、辞める選択ができてよかったと思います。

 

ほんとに最近になって、中田敦彦さんのYouTubeで「繊細さん」についての動画を見た時、初めて自分がHSPだと自覚しました。それからHSPについての本や動画を見て、自分が避けた方がいい状況や考え方などを知ることができました。HSPはまだまだ一般的ではないですし、私自身もHSPを自覚したとしても何も変わらないのですが、「知る」ことが大事なんだと思います。まずは自分がHSPだと気づいて、HSPについてもっと知ることが大切なんだろうと思います。