細長あいブログ

アラフィフから社労士を目指す

HSPをようやく自覚し受け入れていく

以前の職場で働いている時から、すごく生きづらさを感じることがありました。でもそれが何かはずっと分からず、同じようなループをグルグルしてきたと思います。それが自分の性格だと思っていましたし、この性格を変えたいとずっと振舞ってきたと思います。自分に無理して、他人に出来ることは自分も出来ると信じて、いろいろ背負いこみすぎていました。たくさん傷ついたし、落ち込みました。周りと比較して自分を責めたりしましたね。なんで私は出来ないんだって・・。出来ない自分が悪いんだ、認められなくても仕方ないんだと思って、自分の内側に負のエネルギーを溜め込んでいたと思います。

 

そんな私がある事をきっかけに、20年勤めた会社を大儀名分なく辞めることができました。私にとっての大儀名分とは、例えば「結婚して主人の転勤についていきます」とか「出産して育児に専念します」とか。みんなが「あぁそうなんだ。よかったね。」と言ってもらえるような理由。でも私はそういう状況になるのをずっと待ち続け、20年。会社から結婚祝いも出産祝いも貰わぬまま、退職しました。勤続10年を過ぎたあたりから、徐々に同期は減っていきました。ちょうど結婚出産ラッシュの年頃です。私には何も起きませんでした。そして勤続15年を過ぎてあたりから、会社の私に対する扱いがちょっと変わってきたと感じました。私は旦那さんもいないから早く帰る必要がない、子供がいないから無理なお願いができる・・と。私も薄々分かっていたので、残業は進んで受けましたし、子供の発熱などで急にお休みする人の代わりに働いたり。表面的には「いいよ~。大丈夫だよ~」と言っていましたが、内面には黒いものがこびりついていたんですね。すごくがんばる人を演じていたんだと思います。でもある事をきっかけに呪縛が解けたように「そうだ!私辞めよう」と決心したのでした。だから、大儀名分なんてなくていいんです。「辞めよう」と自分が決めたら、辞めていいんです。

 

辞めようと決断した翌日、私は休日で家にいました。それが朝だったのか、昼だったのかもう覚えてないですが、母に仕事辞めたいと打ち明けました。私は母と兄の3人暮らしです。父は7年前に他界しています。年金暮らしの母を私と兄が支えている家計です。だから正直、母には反対されると思っていました。すでに44才になっていましたから。何から話し始めたのかも全く覚えていませんが、途中から泣きながら話していたのは覚えています。そしたら母は「いいよ」と言いました。すんなりとあっさりと。どうやって説得しようかたぶん考えていたと思いますが、何も反対されませんでした。それまでずっと仕事から帰ると、私はずっと死んだような顔をしていたと母は言いました。帰るとまずダイニングの椅子に座り、そこから立ち上がることもできず、何の表情もなくスマホをいじる私を見て、心配していたようでした。仕事時間が不規則で、22時を回って帰宅することもしばしばあり、当時70才になったぐらいの母には起きて待っていることも辛かったと思います。でも出来るだけ起きて待っていてくれるか、調子が悪く寝てしまう時も夕食の用意はしてくれていました。私が辛そうに仕事をしていることも心配していたようです。今思うとすごく体に悪いことをしていましたが、22時過ぎでも夕食を食べていました。なぜならお昼休憩を取ってから何も食べずに仕事するのが普通だったので、お腹が空きすぎで眠れないのです。また仕事の事を考えすぎてアドレナリンが分泌されて頭が興奮状態になると眠れず、食べて血糖値を上げて眠気を起こすようにしないと眠れません。お風呂に入ると寝落ちしそうで、それも母は心配だったようです。今思うと、信じられない生活をしていました。当時はHSPについて全く知りませんし、HSPである自覚が全くないにも関わらず、辞める選択ができてよかったと思います。

 

ほんとに最近になって、中田敦彦さんのYouTubeで「繊細さん」についての動画を見た時、初めて自分がHSPだと自覚しました。それからHSPについての本や動画を見て、自分が避けた方がいい状況や考え方などを知ることができました。HSPはまだまだ一般的ではないですし、私自身もHSPを自覚したとしても何も変わらないのですが、「知る」ことが大事なんだと思います。まずは自分がHSPだと気づいて、HSPについてもっと知ることが大切なんだろうと思います。